コミュニケーションは味わうこと、右から左に消費するな。

コミュニケーションを何のためにするのか
あなたは考えたことがありますか?

コミュニケーションによって、
私達は何を得られているのでしょうか?

私達は、コミュニケーションから多大な恩恵を受けている。

コミュニケーションにおいて大切なことは一つ。
繋がることだ。

しかし、それが最近私たちには足りていないし、出来てもいない。

SNSは、私たちの日々の会話を消費する。
消費は楽しいし、刺激的な面がある。
だから会話を何度もやりとりして、刺激を味わう。

しかし、どんどんみんなが大量に消費していく。
すると、どんどん会話は忘れられていくし、どんどん質の低いものになる。

あっちと連絡して、こっちと連絡して。
友達を増やすのに優越感を感じる人もいるのではないだろうか?

結果的に、SNSは世界レベルで見れば、
知らない人と繋がる可能性を開いたかもしれないが、
もっと狭い生活圏においては、繋がりを逆に閉ざし、
私達からコミュニケーションの恩恵である繋がりという潤いをなくした。

人はそもそもなぜ繋がりたいのかと思えば、
他人を通してしか、自分の存在や価値というものは認められないからだ。
私達はデカルトのように、
「我思う故に我あり」と言えるほど強くない。

自分だけでは自分という存在がふわふわ宙に浮く。
だから人と繋がり、自分という存在を誰かと話している自分を認識して、
強く感じたいのだ。

けれどもSNSのコミュニケーションの加速は、
私達が本質的に求めていた人との深い繋がりを遠のけた。

字はノートに書きたいという人がいるように、
コミュニケーションもSNSよりも直接話す方が100倍楽しいはずだ。

その楽しさの正体は、自分が今この世界にいるという実感と、
自分が居られる場所がある、肯定された、認証されたような感覚だ。
自分の存在を確かめるものが私はコミュニケーションだと考えている。

人と繋がるのが楽しいのは、
自分というものが他人を介す事で鮮明になるからだ。

私達は、「我思う故に我あり」じゃない。
「会話故に、我あり」だ。
そのくらい私達は脆いし弱い存在である。

本来、繋がりを求めてコミュニケーションをするはずなのに、
消費的に毎日適当にされていくものだから、
いくらしても自分の存在や価値がコミュニケーションで充足しない。

だから、SNSはハマる。
寂しさを埋めるために、より刺激、より刺激と、
間違った方向に走る。
見せかけリア充の何が充足しているのだろう?

インスタで写真を必死にあげる人達を、私は寂しさの塊に思う。

インスタグラムは人間のより本質的で汚い部分を見せてくれた。
寂しいという気持ちを隠して、
人より勝りたい、優越感を感じたいという欲がむき出しになってしまっている。

私達は本当は寂しいだけなのだと思う。
誰かに認められたいし、居場所がいつも欲しいと思っている。
それに気づかずに写真をアップしている間は、その本人は寂しさから解放されないのだろう。

高齢者との少しの話。
ちょっとしたコミュニティに参加して、身の上話をする。
友達と1時間直接話して会話する。

それだけで、自分という存在をダイナミックに確認できる。
自分が持っていた固定概念を払拭できるようなタイミングが幾度とある。
誰かと喋ることがこんなにも楽しいことかと思える。
誰かと確かに話している瞬間を、目で鼻で耳でリアルに感じられる。

コミュニケーションは優越感を感じるためにするものじゃない。
コミュニケーションはあなたの”生”を味わうためにするのだ。

会話を楽しめ。会話に集中しろ。
寂しいから私達は会話をするんだ。
それを認め、理解できたとき、相手と会話するということに、
もっと優しく大切になれるはずだ。
その時間を愛おしく思える。

直接話すコミュニケーションというのはすごい。
味わえば、味わうほどに、
噛めば噛むほどに、深ーい味が出る。

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